謹賀新年。
がむしゃらに働き、稼ぐために学んだ2016年が終わり
いつもなら、来年の抱負などあれこれ妄想するのに
2017年について何にもビジョンが沸かずただ眠り更けて新年を迎えた。
速度85キロくらいをキープしたまま走ってたけど
誰かに凄いと思われるようなことは何一つ成し遂げていない。
部屋は綺麗なのに
ずっとやりたいと思っていたギターや英語への夢は埃を被ったままだ。
今はプライオリティが13歳の遺伝子にある。
20歳で歌手を夢見て上京した世間知らずな娘は
20年後に息子を大学に行かせたいと働く普通の母になった。
何にも評価されないままで「夢」だなんて、恥ずかしくて、いい加減言えない年齢になった。
真剣に向き合えないからカバーをかけて見えなくしてるのが
普段マスクで顔を隠してるのと同じだなと思った。
諦めたのかもまだ夢見てるのかも、分からない。
そんな宙ぶらりんな状態で年末になり長野の実家から恒例のリンゴが届いた。
いつもの様に母からの便箋が一枚リンゴに乗っかっていた。
そこには母が、最近厚生労働省から難病に指定された病にかかってる事が
綴られていた。
73歳でタクシー運転手をして、私のCDを乗客に宣伝する事が生きがいの母。
以前のブログにも書いたことがあるけれど、私はあまり子供の頃の記憶が無い。
母については私や弟を怒ってる顔や、具合悪いと言って寝ている姿が印象的で
甘えたことも、抱きしめられた記憶も無く
ただ怒らせないように、いつもビビッていた記憶はある。
高校の頃は家には寝に帰るだけの生活だったし
早く家を出たくて出たくて仕方がなかった。
だから、正直親が死んでしまっても、私はあんまり悲しくないのではないかと思っていた。
父が糖尿病になり、母が今回肝臓の病気になって冷静に考えると
やっぱり私は悲しくはなかった。
こういうと私は凄く冷酷な人間に思われるだろう。
でも人間はみんな必ず死ぬ。
それが何歳で死ぬか、何の病気で死ぬか、又は事故か。
「長生きしてね」って願いや言葉は相手の為じゃない。
その言葉を発した人の為だと思う。
その人に居なくなられると自分が困るからだ。
長生きするのが必ずしも幸せではないと思う。
幸せを考えるなら最後の時に誰と居たか。だと思う。
好きな人と好きな場所で好きな事をして余命を過ごせれば「幸せでした」と心から思えるだろう。
そんな想いから母に
「これからはお父さんと仲良く、好きな事だけして過ごしてね」
そして、医者にモルモットにされないようにと、日頃の食生活や生活習慣の注意点を伝えた。
仕事も辛くなるはずだから早めに辞めて、友達たちと触れ合ったり
今までの40年間ずっと働きっぱなしで見れなかった物を見て欲しい。
もちろん私も出来る限り実家に帰ってあげようと思う。
母は東京に行ってしまった娘が本当は大好きなんだと。
そんな母に「長生きしてね」とあえて言うなら「お父さんの為に」
まぁ仲が良い夫婦だとは思う。痴話げんかをしながらもいつも一緒に居る。
今までは色々あったけど夫婦、家族で遠隔で乗り越えてきた。
鉄砲玉みたい破天荒な娘を持ち心配を沢山かけたけれど、もう大丈夫。
息子が私を強くしてくれたから。
人類はこうやって命を繋いで行く。
その役割だけは担う事が出来たからそれで良いのかもしれない。
過去から歩いてきた未来への道。
立ち止まった分岐点の道路整備だけをしている現状が
母の病気を期に、やっと次の道を選べたような気がした。
今年の年越しは沖縄で過ごさせて貰った。
ずっと寝ていたので初日の出は拝めなかったけれど
2016年最後の綺麗な綺麗な夕日にさよならを言えた。
何度もあなたに疲れた心を癒して貰いました。ありがとう。
そしてイカす軽バンで、あてのない一人ドライブ中に訪れた、ひめゆりの塔と平和記念資料館。
1945年の沖縄の女子高校生達が、どんな想いで死んでいったのか。
捕虜になる事が最大の恥と刷り込まれてきた当時の日本人達の中で
死にきれなくて捕虜になり、結果アメリカ軍に助けられ体験談を伝えてくれてる方々の映像から目が離せなかった。
「戦争を知らない子供たち」という歌があったけど
これからの子供も戦争を知らないままでいて欲しい。
でも、昔戦争があって、何が起こっていたかは学んで欲しいと心から思った。
戦争を防ぐにはまずは家庭から。子供に愛をしっかり伝えられる一年にしたい。
と、お後がよろしいようで。
本年もよろしくお願いいたします。
Lovesong❤Singer Jun Oe